習慣
現在深夜3時14分。
気の迷いと気まぐれで始めたブログだ。 自己紹介がてら書くと私は今までの人生でなにかがずっと続いたことがない。習慣が苦手だ。
それははじめはベタに小学校の夏休みの絵日記からはじまり、体力の衰えが過ぎて死ぬんじゃないかと体が感じたため始めた早朝のランニング。勤め先に毎朝9時に行くことや毎夕17時半に勤め先から帰ること。最終的には風呂や食事まで。ことごとく毎日続けなきゃどうしようもないことが続けられない。 だからいつも私はときどき遅刻をしてるしときどき残業するしときどき臭いしちょくちょくお腹も減っている。
わかっちゃいるけど続かない。訳ではなく、わからないのだ。風呂なんか特にそうでその瞬間は湯船に浸かるときもちいことや翌日顔がテカらなくなることなどおおよそ考えられる14くらいの理由が一切響かなくなるのだ。 瞬間私は何らかを悟ったようなそんな達観した顔をしながらなにも考えていない。
誰かが風呂から出た音も聞こえてもいる。入らねばならない理由の意味もわかる。だけどこの瞬間の自分にその理由がどういう影響を受けることになるのか、何をすればそれを回避出来るのかがわからなくなるのだ。酷いときだと風呂にはいるために何をすればいいのかすらわからない。
未来への想像力が決定的に欠けているのだろうか。
まあもう何年もこの飼い犬のようなぬるい性格で生きているのでどうしようもないと割りきってしまっている。きっとこのブログもそう長く続かないだろう。しかしどうしても悲しくなる場面もある。 それは私に収集癖というのがあることだ。
収集というのはそれこそ習慣がものを言うようなもので、常日頃からその事を頭の片隅に置いておいて、敏感にそれをキャッチし手中に納め、日常に彩りを添える。この作業が私にとって苦痛で苦痛で仕方がないのだ。
なら、そんなものしなければいい。
もちろんそう思う。だけど “集める事の快感” という概念があるということは知ってしまっているのだ。私だって気持ちいいことがしたい。
気持ちいいことがしたいから私はものを、(しかも他人が出来るだけ要らなそうなものを)集める。飽きるまで。 その歴史は古く、親や親戚のもっている包装紙から小学校の時のコーヒーの空き缶。楠田枝里子のようなおもちゃの消ゴム。回収ボックスに入っていた使えなくなったパスネット。ご当地加トちゃんのストラップ。マスキングテープやバンダナ。ポケットTシャツ何てのもあった。
それら全てが続かないのだ。 私はそのたび、少し物悲しい気分になる。そして再び集めようという気はおきずまた達観した顔でぼーっと集めたものを見ている。
ぼーっとついでに後ろを振り替えると過去私が集めてきた宝物が点在しているのがわかる。 それはまるで私の人生の年表のようにも見えてくる。
199○年 包装紙。
199×年 空き缶。
199□年 鼻くそ。
200△年 消ゴム。
200▼年 パスネット。
………
……
…
おや、もう未来の年代になってら。 未来はなにか続けているだろうか。
せめて生きるのに飽きなきゃいいけど。
そんなこんなでまずこのブログがとりあえず1時間半続いたことになる。